私はダイアンを見ながら座っていた。唖然としていたと言うだけでは控え目すぎる。「私、こんなこと、すべきじゃないと思ってたのに」と彼女は言った。
私は返事をしなかった。私はまだ座ったまま、頭の中がぐるぐるしていた。リチャードが言った言葉! こんなことになるなんて、まだ信じられずにいた。彼を信頼していたのに…。心を開いて、彼を受け入れたのに…! まるで悪夢のよう。いや、本物の悪夢。
「最初から、こんなことすべきじゃないと分かっていたわ…」とダイアンが言った。
気づくと彼女はすでに立ちあがっていて、座ってる私を見下ろしていた。困った顔をしている。
私は何も言わなかった。またリチャードのことを考えていた。
「……話した方がいいわよ」 彼女がようやく続きを言った。今は私の隣に腰を降ろしている。
「彼、どうしてあんなふうな?」 やっと言葉が出た。目に涙が出そう。
「あなたに誘われた時、断るべきだったんだわ…。いいこと、ケイト。誰にでも秘密はあるものなの」
「でも……」
「いいえ! 私の言うことを聞いて。あなたにも秘密はあるのよ」
「私は、人に鞭を振るったりなんかしたくないわ!」
「そうだけど…。ちゃんと聞いて! あなたが、彼の心の奥を知りたいと思っていたの。私は、そんなこと忘れなさいって言ったわ。大変なことになるって分かっていたもの。だから、あなたに誘われた時、私、断るべきだったんだわ」
「つまり、私は知らない方が良かったと思ってるということ?」
ダイアンはすぐには返事せず、ただ、大きく息を吸った。「ケイト…? でも、あれって、そんなに変なことじゃないの」
私はただダイアンを見つめていた。意味が分からない。私の彼氏が私を鞭で叩きたいと思ってることが、「変なことじゃない」って? 私を辱めることが? 彼の言葉を使えば、私に「ご慈悲を請わせる」ことが?
ダイアンはしばらく黙っていたけど、ようやく続きを言った。
「人の心の中を探ったら、何と言うか、予期してなかったものが出てくるかもしれないと思うべきなのよ。ああ、本当に後悔してるわ。こんなこと、話しに乗るんじゃなかった。正しいことじゃなかったのよ。あなたとトムで…あの問題があったからとしても、こんなことをするのに同意しちゃいけなかったんだわ」
ダイアンはそこで話しを止めた。でも私は返事をしなかった。言葉が出せなかったから。目がチクチクして涙が溢れそう。ほとんど目が見えない。
ダイアンが続けた。「ねえ、ちゃんと聞いて。リチャードには何も悪い点はないのよ」
「でも……」
「彼、あなたを愛してるって言ったの聞いたでしょう?」
「だけど、私に鞭を使いたいって!」
「そう。でもそれは、私たちがしつこく訊いたから。いいこと? 催眠術から分かることが一つあるとすれば、それは、他の人の個人的な思いについてあまり感情的になるなということ。その点を乗り越えるようにならなくちゃダメなの。さもないと、確実に彼を失うことになるわよ」
「彼を失う?!」 私は突然ヒステリックになっていた。「私、彼とは一緒にいられないと思ってるのよ!」
「ちょっと! あなた、彼を愛してるって言ったじゃない。だからこそ、彼の頭の中を覗いてみたいと。忘れたの? リチャードがトムみたいな人じゃないのを確かめたいって? それに、あなたは、今はリチャードはあなたを愛していると分かってるのに!」
「でも……」
「他のことは全部忘れるの!」
私はしばらく黙っていた。ふと、自分はダイアンのことを全然わかっていないんじゃないかと思った。ダイアンはどうしてこんなことが言えるのだろう?
「でも、彼が私を痛めつけたらどうするの?」
「どうしてリチャードがあなたを痛めつけるのよ?」
「だって、そうしたいと思ってるんでしょ! そう言ったわ…」
「それは彼の欲望なの。その点、他の人と変わらないわ。人にはたくさん欲望があるものなの」
「……彼は私を痛めつけたいと思ってる。もし彼と一緒にいたら、彼に痛めつけられるんだわ」
「いいえ、リチャードはそんなことしないわ」
「どうして?」
「彼がちゃんとした人だからよ。リチャードはちゃんとした人だから、あなたが望まぬ限りは、あなたを痛めつけるのは正しいことではないと分かってるの」
「でも……」
「誰でも心の中ではいろんな欲望があるものなのよ。例えば、あなたが誰かに腹を立てたとして、その時、どんなことをしたいと感じるか、自分で考えてみるといいわ……」
私は黙っていた。
「…どう? 分かるんじゃない? 誰でも心の中で怒りまくることがあるものよ。でも、ちゃんとした人は、そういうときでも、自分を抑えることができるの。どうしてそれができるか分かる?…」
私はまた返事をしなかった。ただダイアンを見つめていただけ。
「…そういう人には、もっと重要な別の欲望があるからよ。例えば、公正に振舞いたいとか…」
「…リチャードも、心の中では何か変なことをしたいという欲望を感じてるかもしれないわ。でも、彼がちゃんとした人なら、あなたが私に言ったように、それは確かだと思うけど、もしそうなら、そんな欲望は、彼にとっては、そんなに重要ではないはず。むしろ、あなたとの関係を正しくしておきたいという欲望の方が強いはず」
「でも、リチャードがそういう欲望を持っていると知っちゃうと…」
「だから、こういう誘いに乗るべきじゃなかったんだわ、私。催眠術なんて…。できてもすべきじゃなかったの。もう二度とダメ。それに聞いて、そういう欲望って、そんなに変なことじゃないのよ。そういう欲望を持ってる男はたくさんいるわ」
またダイアンは間をおいて、私にしゃべらせようとした。でも、私は黙っていた。頭の中で疑問が渦を巻いていた。女に鞭を振いたい男はたくさんいるって…?
「…それにそれを望む女も同じくたくさんいるの。ただの欲望なの。実際、それをしてるカップルも多いの」
「でも、それって病的よ!」
「普通だわ」
「女に鞭を使う男が普通ですって?」
「誰も傷つけないなら、そうよ! そういうことを楽しみのためにしてるカップルもいるの。寝室で」
私はダイアンを見つめた。「どうして、あなたにそれが分かるの?」
「そうだからよ。誰も傷つけていないわ」
「でも、あの女性、あんなふうになって…。あの人、助けを求めていたわ!」
「もし、本気で助けを求めていたとしたら、それは彼女が危険を感じたからでしょう。でも、安全だと分かってる女だったら、自分から進んで、楽しみのためにそれをすることもあり得るのよ」
「楽しみって!」
「その通り、楽しみよ! 欲望に身を任せること。男が安全だと感じられるなら、ちゃんとした人だと分かるなら、女はそれをして喜べる…」
私はまだ理解できなかった。まるで世界がひっくり返ってしまったみたいだった。どうしてダイアンはリチャードの肩を持つの?
「普通の女が、鞭で打たれ、恥辱を味わわされるのを許す。あなたはそう言ってるのね?」
「自分の意思でそうされるときに限りね。一種のゲームをしてるのよ」
私は彼女を見つめ続けた。
「ルールを作ってしてるの。ふたりともその気であるときに寝室でのみ行うとか、女はいつでも中止することができるとか…」
私は黙り続けた。
「…ふたりとも快感を感じられる場合にのみ、続けられるとか」
「女が、恥ずかしい目にあわされて喜ぶ、って? そんな…」
「現実にではないわよ。でも、全体的に見て、現実にはそんなことを望んでいない場合でも、女の人の中には、そういう欲望に身を任せたいと思う人がいるものなの」
私は間を置き、そしてようやく口を開いた。「そんな人いない」
「いいえ、いるわ」
「どうしてそれが分かるの?」
今度はダイアンが口をつぐんだ。何か考えている様子だった。
「…私は催眠術師だから。人の心についていろいろ知ってるから。それに私、人の心を読むし…」
「あなた、もしかして…」 と、私は言いかけたが、最後まで言わなかった。
その日の夜、ベッドに横になりながら、私の頭の中にはまだいろいろなことが渦巻いていた。リチャードが言ったこと! ダイアンが言ったこと!
私はリチャードとの関係を修復しようと努力したのは事実。でも、うまくいかなかった。あのことについて彼には一度も話さなかった。だけど、彼と一緒にいるといつもあのことが心の中に浮かんできて、消し去れなかった。いつも嫌悪感と恥ずかしさの両方を感じた。それは耐えきれなかった。結局、リチャードとは別れた。彼はどうしてそうなったのかはっきり分からなかったと思う。
それから1年ほどしたころ、とあるレストランから彼が出てくるところを見かけた。彼はダイアンの腰に腕をまわしていた。