お化粧奥さま


この前、高橋裕子という人の『世紀末の赤毛同盟』(岩波書店)という本を読みました。髪の毛の色や形の象徴的意味を中心として、絵画に出てくる女性像に隠れている意味をいろいろと論じていて面白かったです。で、その中の一章に、「化粧する女たち」というのがあって、「化粧絵」についての論考があってほほーっと唸っていたのでした。この「化粧絵」の分野でもビーナス奥様は大活躍で、盛んにお化粧姿を覗き見されています。例えば、次。
Boucher 1751 The Toilet of Venus

先の『赤毛同盟』の本によると、西洋においては基本的に化粧は「悪」だったとのこと。お化粧で化けるとは、罪深い本性を表面的に隠すだけであってよからぬことなのだと。そう言った意見が繰り返し出てくる。もちろん、そのような化粧否定論が繰り返し出てくるということは、逆にいえば、そんだけ化粧が流行っていたということ。

だがだが、建前としては依然として化粧=悪。そして、そこからいろいろな象徴的イメージが派生してくるようです。まずは、化粧=悪を行う女性は「まっとうでない」女性というイメージ。まっとうでないと言うことは、つまり、娼婦とかそういった女性たちだというイメージです。ビーナスには精神的な愛の至高性を表す「天上のビーナス」と、俗世間的愛欲を象徴した「地上のビーナス」の両面から捉えられていたらしいと前に書いたかもしれませんが、そこからすると、お化粧するビーナス奥様の絵は、明らかに、「地上のビーナス」の方でした。

さらに、そのような本来プライベートであるはずの美のメンテナンス作業であるお化粧を見ている人物の視点が加わると、なお一層、エロっぽさが暗示されるようになってきます。・・・その・・・何と言うか・・・一夜共に過ごした後、「よかったよー!最高だったよー!僕は幸せだよー!」と思いながらお化粧修復作業に従事している女性を見ている男性の視点(なお、この段落の内容は上掲本にはないです。僕の印象です)。
Titan A Woman at her Toilet

それにしてもお化粧のことは「トイレット」と言うんですね。したがって、「化粧絵」=「トイレ中の女性の絵」です。ゆえに今で言えば「女子トイレ盗撮モノ」に匹敵します。そう言えば「水浴画」も多いですが、あれは「女湯盗撮モノ」。ともあれ、特別な関係になった男女の間ならともかく、普通の場合、トイレ(=お化粧)する場所は不可侵領域です。神聖な場所です。変身の儀式を行う場所です。ゆえに、男性から「トイレが長い!」とか「なにかとすぐにトイレに行く!」と文句を言われても、神聖な儀式を重んじる女性には全然こたえていないのでしょう。

もう2つ化粧画を。これらは少し清楚な感じ。

John William Godward 1900 The toilet

Albert Moore 1886 The Toilet

ビーナス奥様の場合、さすが美の女神だけあってお化粧メンテナンス作業は一人ではこなしきれません。前に触れた三美神にも手伝ってもらいます。うーん、さすが優雅なご身分! 高級エステ感覚!

Guido Reni 1620 The Toilet of Venus

Simon Vouet 1616 The Toilet of Venus

ビーナスじゃないけど、植民地時代ともなると御付きの人も黒人召使に代わります。

Frederic Bazille 1870 La Toilette

『赤毛同盟』でも指摘されていましたが、化粧絵では鏡がよく出てきます。化粧絵とは言え、化粧というのは化けている過程なのでなかなか絵になりにくく、むしろ化粧が完成した時点で鏡を覗き込んで確認しているところが絵になりやすい。しかし、この「鏡」というのが単なる小道具ではなくて、別の象徴的意味を持ったものとなってくるとのこと。

つまり「鏡」に映し出された姿というものは実体を欠き、次々と移ろっていくもの。さらに鏡に映る美も束の間のものですぐに衰えてしまうであろう。つまり鏡は「無常」(ヴァニタス)を表すものとなっていきます。カラダがきれいでもすぐに衰えてしまうものだし、官能的な愛もむなしいものだよってメッセージ。

Rubens 1615 Venus at a Mirror

その意味で、次のヴェラスケスの絵で、鏡の中のビーナスの顔がボヤケているのが意味深。

Valazques The Toilette of Venus

そして、次のティツィアーノの絵。

Titan 1555 Venus at her Toilet

この絵では鏡の中からこっちを見ているビーナスの視線がちょっとドキッとします。

確かに、鏡に映った美は移ろいやすくはかないものかもしれない。だが、このティツィアーノの絵のビーナスは、その圧倒的に豊満な女性美で、それを超越してしまっているような気がします。「鏡の中の美が移ろいやすいものであるとして、それが何の意味があるの? 今現在、この女らしさを誇る容姿に自分は絶対の自信を持っているのよ。それが私の中ではリアルなの!!」そんなメッセージが感じられます。同じメッセージが上のルーベンスにもありそう。

さて、そのように開き直って圧倒的に女性らしい美を誇られた男性はどうなるでしょうか? 少し弱気な男なら、こりゃあもう、圧倒されてしまって、逆に、畏怖の対象、信仰の対象にすらなっていくと思われます。ああ〜、その美しさ!自信に満ちた生命力!すべてを超越する存在!誰もかも君にひれ伏すことだよ〜!そして僕を好きに使って〜〜!僕を下僕にして〜!

マゾの語源ともなったザッヘル・マゾッホという作家の代表作に『毛皮を着たビーナス』というのがあります。(参考までに、ここ)。この小説の冒頭に、上記のティツィアーノのお化粧ビーナスの絵のことがあるのでした。この絵はこの小説の発想源となったと言ってよいと思います。主人公のマゾ男性は、この絵を見てそこに理想の女性を見出します。「(男に)情熱の炎を掻きたてながら、自分は凍えている愛と美の残酷な女神」を感じる。そしてその後、この主人公は現実にそのような女神の化身であるワンダという未亡人の虜となり、彼女に仕えることにこの上ない喜びを感じるようになっていくのでした。




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