ペロプスとヒッポダメイアの話について、いくつか分からないところがある。
まず、オイノマイオス王の馬車に細工をして、馬車競争に勝つという計画は、ヒッポダメイアとミルティロスだけが知っていたのか。それともペロプスも荷担していたことなのかという点。もう一つは、ミルティロスも仲間に入れるとき、どのような条件があったのかという点。国の領土の半分を分け与えるというところは、たいていの神話本に一致して見られる。だが、ヒッポダメイアとの性交渉まで条件に入っていたのかどうかは、本によってばらばらだ。
ここは一つ、次のように解釈しておくことにする。オイノマイオス王の馬車に細工をする計画は、相思相愛になったヒッポダメイアとペロプスの計画だったと。その計画実施にはミルティロスの協力も必要だった。だが、そこでミルティロスを引きずり込む条件としては、領土の半分を分け与えるという条件だけであったと。だが、密かにヒッポダメイアがミルティロスに色仕掛けの餌を撒いていたかも知れない。そして、それはペロプスは知らないことであった。
ペロプスは馬車競争に勝利し、オイノマイオス王は事故死する。馬車競争の条件にしたがって、ヒッポダメイアはめでたくペロプスのものになる。ミルティロスも引き連れ、3人でペロプスの故国に戻ることになる。いずれ故国に戻ったペロプスは軍勢を従えて、オイノマイオス王のいなくなった国を征服しにくればよい。
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ペロプスの故国に3人で戻る道中。
切立った崖の海岸沿いの道。
途中、暑さにヒッポダメイアが喉の渇きを訴える。
馬車を止めるミルティロス。
森の中に水を探しにいくペロプス。
ペロプスの姿が消える。
二人だけになるヒッポダメイアとミルティロス。
会話はない。
聞こえるのは海の波の音。
さんさんと降り注ぐ太陽の光。
木陰に避難し、休む、二人。
ミルティロス、ふとヒッポダメイアを見る。
喉の渇きのため、荒い吐息。
半開きの唇。
ほのかに漂う女性の体臭。
美しいこめかみから汗がひとしずく、豊かな胸元に滴り落ちる。
突然、ミルティロスはヒッポダメイアに襲い掛かる。
ようやく水を汲み、戻ってくるペロプス。
「ミルティロス!」
格闘する2人の男。
そして崖ふちにもつれこむ。
ペロプスの拳が半円を描くと、それを受けたミルティロスは足場を外し・・・。
「わああああああ・・・・・・」
断崖から落下する数秒の間に、ミルティロスはペロプスとヒッポダメイアに呪いをかけたのだった。
前回、一気にクリミア戦争まで行ってしまった。この戦争が起きたのは1850年代。この戦争以来、「東方問題」という名の西欧列強によるオスマントルコの分割が本格的になっていくらしい。だが、もうちょっと前にさかのぼって中近東の歴史を振り返ってみたい衝動に駆られる。
どのくらい遡るべきかと考えるとややこしくなってしまう。だけど、とりあえず古代文明から。
ナイル川流域にエジプト文明、チグリス・ユーフラテス流域にメソポタミア文明の2つができていた。その二つからちょうど良いくらいに離れた位置にあったギリシャ。そこにギリシャ文明が花開く。その後、ギリシャの北側に位置していたマケドニアが力をつけ、アレクサンダー大王が地中海一帯からペルシャにかけて征服。ギリシャ的世界が中近東に拡大。マケドニアはローマに変わり、ローマ帝国誕生。ユダヤ教とキリスト教が出現。
ローマ帝国は東西に分裂、西ローマはゲルマン民族により崩壊。フランス、イギリス、ドイツなどの国々の原型となるものに分裂していく。一方、東ローマはビザンチン帝国として存続。西暦600ごろマホメット誕生、イスラム教の出現。イスラム国家としてのサラセン帝国が拡張。西はスペイン、東はアラル海あたりまで征服。古代ギリシャの哲学・科学を継承したのはキリスト教圏ではなく、イスラム圏だった。ゆえに中東は西欧に対して知的に圧倒的優位状態。
今は汚染されて面積も3分の1に減ってしまったアラル海。そのアラル海近辺にいたトルコ人が西進開始。セルジュークトルコ。今のパキスタン、アフガニスタン、イラン、イラクそしてトルコを征服。ビザンチン帝国に迫る。あせった西欧、力をつけていたこともあって数回にわたる十字軍を指揮。だが知的に優るイスラム圏の勝利。慌てる西欧圏。カトリック権威失墜、宗教改革広まる。
モンゴルの蒙古帝国、一気に世界をかく乱、中央アジアから、ロシア、東ヨーロッパ、そしてアジア、アラビア地域まで一掃。強烈なリセットボタンを押す。それに押されて、カスピ海とアラル海の中間地域にいたトルコ人が西に移動。オスマントルコとなる。一気に、イスラム圏を統治下に。イラン地域は別。
十字軍の戦時交易、そしてその後のオスマン帝国を介在させた地中海通商の影響でイタリアの諸都市繁栄。経済的余裕から1500年台初頭ルネサンス開花。イスラム圏からギリシャ由来の科学・哲学などの知識を積極的に取りこみ始める。オスマントルコ、コンスタンチノープルを陥れ、とうとうビザンチン帝国崩壊。さらにバルカン半島に進出。ウイーンまで攻め入る勢いを見せる。同時期コロンブスがアメリカへ。オスマントルコに支配された中近東の陸路を避けた通商路を求めての大航海時代。
1600年台、デカルト、ニュートンなどが登場。科学の基礎が完成。この時期から、科学・技術の点でヨーロッパがイスラム圏より優位に立つ。そして絶えずヨーロッパ内部で小競り合いを繰り返してきた西欧諸国が、とうとう、喜望峰経由のルートでなく直接的に中近東を経由してインドへと勢力を拡張する意思を持ち始める。スエズ周辺とエルサレムを仕切っているオスマントルコが邪魔になってくる。一方、不凍の海を求めるロシアが南下開始。オスマントルコ、イラン、アフガニスタン、インドがターゲットに。
ヨーロッパ各国が科学の基礎を固め、海外に進出し、「国家」の概念を先鋭化させていた時期、イスラム圏の盟主オスマントルコは今ひとつ、リノベーションを怠っていたのだった。1683年、再びウイーンの攻略を試みるが失敗に終わる。ここに、ヨーロッパとトルコの形勢が軍事的にも逆転。
1699年、オスマントルコが、オーストリア・ポーランド・ロシアの連合軍に敗れる。カルロビッツ条約締結。ハンガリー、トランシルバニア、クロアチアがオーストリアに。1718年にも同様のバルカン半島領土割譲を含むパサロビッツ条約が締結。1761−1774年、露土戦争。キュチュク・カイナルジャ条約。黒海沿岸のクリムハン国、カスピ海沿岸のゲダスタン、グルジア、アゼルバイジャンをロシアに失う。1776年アメリカ、東部13州独立。1789年フランス革命。オスマントルコとフランスは、対オーストリア、対ロシアという共通の問題があったため、伝統的に協調路線を取っていた。だが・・・。
1798年、ナポレオンが率いるフランス艦隊、エジプト沖に出現、上陸。
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「東洋」と訳されるのが普通の「オリエント」という言葉は、実体は、中近東をさす。
ナポレオンのエジプト出征以降、フランスを中心にオリエント熱が高まり、異国情緒溢れるイスラム世界の紹介を中心としたオリエンタリズムと一括して呼ばれるジャンルが生まれる。
グロ Antoine-Jean Gros 1772-1835 French
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サイード『オリエンタリズム』:
サイードによる観察
オリエントは、西洋とは異質であり、劣っている存在。オリエントの男性は知的に弱々しく野蛮。だが、西洋の女性に対しては危険な誘惑者的人物。オリエントの女性は支配されることを望んでいる。驚くほど官能的でエキゾチック。オリエントは、現実には無数の多様性がある。だが、単一的なイメージでしか語られない。オリエントは、西洋とは異質の、エキセントリックで、後進的で、官能的で、受動的な存在。進歩とは無縁の存在。支配を求める女性のように、強力にコントロールしてあげるべき存在。西洋によって征服されるべき劣等者としての存在。
最初のオリエンタル研究家は19世紀のヨーロッパに登場。中近東の著作の翻訳から始まる。翻訳を通してオリエントを知ることが必要だった。征服と植民地化を進めるには征服されるべき民族についての知識が必要であったから。西洋はオリエントを知ることによって、オリエントを所有することができる。そして、「オリエント」という概念が構築される。現実には多様であるにもかかわらず、単一化されたイメージが出来上がる。典型的なオリエントの人物像が形成される。身体的に劣り、文化的に後進的であり、理解しがたい存在。主として、支配・被支配の観点と性的な観点でオリエントが記述されるようになる。オリエントを語る言葉や視覚イメージは、権力と優位性の概念に彩られていく。女性的で弱々しいオリエントは、力強く男性的な西洋によって支配されることを待ち望んでいるのだ。誰にも守られずに無知なままでいるオリエントは、西洋に支配され、西洋のために尽くすべきである。
このオリエンタリズムは「アラブ」の記述についても生き残っている。アラブは非合理的で、脅威的で、信頼が置けず、反西洋的で、画一的。
サイードの主張
オリエンタリズムの思考の根底にある前提を疑問視しよう。画一的な身体に関する一般化や、文化的偏見、人種や宗教の偏見を拒もう。西洋とオリエントとの境界を消そう。違いがあることを否定するのではない。批判的、客観的にその違いを検討しようではないか。
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サイードの主張については100%同意。だが、観察についてはいかがなものなのだろうか?